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このページは 2007 年 07 月 17 日 21時46分59秒 に更新したキャッシュ情報です。

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依存とは?

[ 146] 共依存
[引用サイト]  http://www.geocities.jp/pachimaya/kyouizon.html

共依存を一言でいえば、「他者に必要とされることで、自分の存在意義を見い出すこと」となる。共依存の特徴をよく表現している文章を以下に引用する。
共依存者とは、自己自身に対する過小評価のために、他者に認められることによってしか満足を得られず、そのために他者の好意を得ようとして自己犠牲的な献身を強迫的に行なう傾向のある人のことであり、またその献身は結局のところ、他者の好意を(ひいては他者自身を)コントロールしようという動機に結び付いているために、結果としてその行動が自己中心的、策略的なものになり、しだいにその他者との関係性から離脱できなくなるのである。(加藤篤志)
つまり、自分の内面が空虚で他者の評価を必要とするだけでなく、他者の評価を獲得するために他者を道具として利用する人たちのことをいう。一般的傾向としては、他人の世話を焼きたがる割には、他人に対して不誠実で策謀的な点があげられる。
1970年代の後半にアルコール依存の臨床で発見されたといわれている。以下のようなプロセスがあったとみられている。
・アルコール依存の回復において、依存者同士のグループセラピー、そして「家族からの隔離」が有効であることがわかった。
・その後、ほとんどの臨床ケースにおいて、依存者の家族の中に「依存者への世話に依存している人」が発見され、その人が依存を後押ししてしまっている事実がわかった。
従来は、アルコール依存を個人の精神的弱さの問題と考えていたが、この発見によって依存者の人間関係に焦点が移る。依存者の回復には、その依存に手を貸している人の治療も必要であるという認識が得られたのである。
当初、アルコール依存の家族にたいして、依存を手助けしないためのアドバイスをすれば済むと考えられていた。しかし実際は、その家族の依存的態度の変更がはるかに困難で、それ自体を一つの病的傾向として扱われるに至った。
その結果、あらゆる嗜癖とは共依存の反応の一つであり、すべての問題の根に「共依存」があると認識されるに至る。
ついには、現代社会に広くみられる一般的病理として「共依存」という言葉が使われるようになった。自分の存在意義を確定させるために、他者からの承認を過剰に求める現象は、現代社会のあらゆるところで見いだすことができるのである。
依存というのは、依存する対象の問題ではなく、依存してしまう人格面の問題である。つまり、「パチンコにはまったかどうか」の問題ではなく、パチンコという行為にのめり込んでしまう人格の問題といえる。
人格を考えるときには、個人で完結する問題ではなく、その依存者の人格形成に関わった両親、そしてその依存者と結婚するほどまでの密接な関係を築いた夫婦関係が問題となる。(なお、結婚した時点で依存が表面化していたかどうかは、まったく関係がない。)
そして、実際、依存者の両親(特に母親)はたいてい共依存の傾向があるし、夫婦間でも共依存関係に至っていると推測される。
上で述べたように、依存者はその家族から離れることによって回復するケースが多い。共依存状態の中にあっては回復は困難なので、そこから物理的に離れてしまうことが有効なのである。
親子間においては、社会通念として子供は親離れすることが要請されている。そのため、成人が依存症になった場合には、親子関係の共依存があったとしても、すでに物理的に離れているケースが多い。
しかし、夫婦間においては、物理的・経済的に密接な関係にあるだけでなく、心理的にも適切な相互依存関係にある。夫婦である以上、お互い適切に依存しあう必要があるにもかかわらず、その依存の仕方が共依存になってしまった場合、その後の夫婦関係は相当の困難を伴うと考えられる。(カウンセラーなどの第三者の介入と援助を求めることを強く推奨したい。その際、妻と夫の両方が、(別々ではあっても)カウンセリングをうける必要があるのは言うまでもない。)
共依存の特徴は、他者へのコントロールにある。他者の承認を得るため、自己中心的に他者の感情を操ろうとしたり、自分に依存させようとする。
その点から考えると、仮に夫がパチンコ依存のときに、共依存者の妻が取りうる一つの典型的なパターンが浮かび上がる。つまり、今までのコントロールに加えて、今度は「パチンコ依存だったという事実」によって、夫の行動や感情を操ろうとするのである。
共依存者は、共依存以外の人間関係が構築できないのが常である。夫をコントロールするという想定がどれほど異常な関係かを理解できない。おそらく、共依存者の両親も共依存傾向にあり、それを無意識に学んでしまったと考えられる。また、そういう人格傾向があるからこそ、同じく依存的な人間である現在の夫と結婚することになったはずである。
依存者の家族は、自分が共依存である可能性(あるいはその事実)を指摘されると、反射的に反論してしまう。「自分は今まで散々苦しめられた。なのに、それが自分のせいだっていうのか。冗談じゃない」というわけだ。
そのように誤解される理由は、責任の所在をどこかに求めようとする点にあると考えられる。たとえば、夫がパチンコ依存になったのは妻が原因だ、などという誤解がある。実際は、夫と妻がどちらも共依存的傾向を持ち、だからこそお互い密接な人間関係を築き、現在は夫の方が目に付きやすい嗜癖がある、と考えるべきなのである。
人間関係は人格の基底である。嗜癖という行為はその基底からわき出てきた泡と見なすべきだ。依存者と密接な人間関係にあるものすべては、等しく依存的な傾向を有していると考える方が自然なのである。
なお、夫がパチンコ依存のときに、妻が「自分は共依存者ではない」と主張することは、「自分と夫はもともと精神的な交流がない」と断言するのに等しい。(ただし、ここでは共依存の定義をやや広く捉えている)。また、もし妻が共依存であるにも関わらずそれを自覚しないならば、夫の依存回復は困難になる。
パチンコ依存者はたいてい大きな借金をかかえている。そして、それが発覚したときにとるべき対応はだいたい以下の3つに限られる。
この中で、身代わり弁済という手段は、自力返済のように高金利を支払うこともなく、自己破産のように社会的信用を傷つけることもないので、一見すると合理的でベストな選択のようにみえる。しかし、多くの人が経験的に(あるいは直感的に)知っているように、もっとも困難な選択なのである。
まず第一に、パチンコ依存者は依存的な人格傾向を持つからこそ現状に至ったわけで、その後始末を依存的手段で済ませることは、その人の人格変容を要求しないことになる。安易な解決によって、その人の問題が保存され、依存回復のチャンスを失う。
さらに、誰かに借金を支払ってもらった場合、その人との間に共依存関係ができやすい。金を払ってもらった依存者側は負い目を感じることになるし、弁済した側は無意識のうちに相手の支配権を持つ思いこむ。両者の間に対等な関係が形成できなくなるのである。
妻が夫の借金を弁済した場合、夫は負い目を感じて、その息苦しさから逃れるために家に寄りつかなくなることがある。また、妻は弁済したことによって夫を何かと支配しないと気が済まなくなり、自分の共依存傾向を強める。
親が子供の借金を弁済した場合、子供は親に負い目を感じて、根本的な親への依存心からいつまでも脱皮できなくなる。親も何かにつけて子供に干渉するようになり、共依存傾向を強める。
結局、「身代わり弁済」というのは、共依存の表現なのである。貸した側が共依存者として、パチンコ依存者の依存を後押ししていることになる。安易に身代わりを引き受けてしまった人は、その行為によって相手をさらに苦しめることを十二分に理解しよう。負い目から逃れるために、パチンコ依存者をさらなる自己破壊に仕向けてしまうことだってあるのだ。(つまり、共依存者とは、親切や自己犠牲を装いながら、他者を支配し苦しめる結果をもたらす傾向がある。)
依存回復という視点からみれば、長い自力返済の期間を経たり、あるいは任意整理や自己破産をした方が、本人にとっていい結果をもたらすことが多いのである。金銭的な損得の観点だけで、安易な身代わり弁済をすることは控えた方がいい。
なお、身代わり弁済が絶対にいけないというわけではない。上記のことを両者が十二分に理解し、できれば第三者の助けを借りながら、依存の根本的な問題に努力していけば、遠回りではあるものの回復は可能だろう。

 

[ 147] 共依存とは
[引用サイト]  http://trauma.or.tv/1kouisho/6.html

共依存の人は、自分自身を大切にしたり自分自身の問題に向き合うよりも、身近な他人(配偶者、親族、恋人、友人)の問題ばかりに気を向けてその問題の後始末に夢中になります。身近な人の取らなかった責任を一生懸命代わりにとり、結果、現在の困った状況を身近な他人本人が決意して解決する必要を与えず、困った状況をそのまま続けるはめになる……あるいはますます困った状況に陥っていく人達のことです。
身近な他人は大きな問題 アルコール依存症やギャンブル依存症、非行や暴力、買い物中毒、仕事中毒、絶えない人間関係のトラブルなどを抱えているため、共依存症の人の「共依存」という問題がクローズ・アップされることは滅多にありません。
けれども、そういった見た目に派手な依存症や問題を抱えている人達の側にかならずといっていいほどいると言われています。共依存の人達が問題の後始末を一生懸命してくれるので、「困った人達本人」は「困った状況」が「なんだかんだ言ってもなんとかなる」と無意識で感じています。このため問題を解決せずにほったらかしにし、悪化させます。この現象を指して共依存者のことを「依存症の支え手(イネイブラー)」と呼ぶこともあります。
ここで誤解しないでいただきたいのは、身近な誰かが何かの依存症にはまっているのは、その本人に問題があるからです。問題のない人は、依存症にはまりません。共依存症者と他の依存症者が一緒にいると、2人とも依存症がエスカレートしやすくなりますが、共依存症者が側にいなくても、他の依存症者は依存症にハマっています。「私が共依存症だから、相手がパチンコ依存症なんじゃないか」というのはハッキリと間違いです。
共依存症者が側にいなければ、他の依存症者のエスカレートはゆるやかになるケースが多いと言われています。それと同じように、他の依存症者が側にいなければ、共依存症者のエスカレートもゆるやかになります。
立場は同等であり、とちらにも同じように問題があります。どちらが悪いという話しではないことをご理解下さい。
日本女性はとくに「我慢して尽くすこと」が美徳だとされているので、共依存者が多いといわれています。ある程度までは「人間関係の潤滑油」ですが、共依存症者にとってその人生は他人の後始末、後始末、後始末……他人の責任の代行ばかりで自分のための人生を生きることができません。自分自身の人生もみじめですし、周囲もみじめなままになってしまいます。
共依存の中核の症状は5つとされ、それを核にして16の症状行動(思考・態度)が派生します。
自己と他者の境界設定ができずに、他者に侵入したり、他者の侵入を許したりするという自己保護の障害
自分が他人にとって必要になっており、ありがたがられる、などの報酬を無意識に期待している。目先の愛情にとらわれて他人の世話をするが、大きな目で見ると他人や自分を破滅に導いていることに気がつかない(例・不良息子や飲んだくれ亭主に必死に働いてお金をあげたり、本人達の不始末を代わりに謝る)
他人の行動の責任はとるが、自分の行動がどのような結果を招いているかは考えない。他人の文句を言ったり、他人がどうするべきかを考えてそうなるよう努力はするが、自分がどうすれば本当は良いかを考えない。
問題のある人や場所に惹かれやすく、不安定な生活を送りやすい。いざ安定した自分中心の生活と不安定な他人中心の生活の選択をせまられると、「私がいないとあの人は……」「金銭的に無理」などといろいろ理由を並べて熱中できる問題がたくさんたる生活を選ぶ。
自尊心・自己評価が低く、自分自身が好きではない。一人で過ごしているとひどい虚無感に襲われて、自分を必要としてくれる人を常にもとめ、「見捨てられる危機感」を振り切れない。
特定の他人の問題で頭がいっぱいで、友人からも離れ、小さく狭い世界で生活する。このため、自分と自分の周囲の狭い範囲の人達が、どんな悲惨な状況なのか気がつかない。
他人の目や意見を気にして、あるいは自分の本当の気持ちをごまかすために、真実を隠して表面は何でもないように振舞う。悪い面をできるだけ小さく考えようとしてそう表現する。
コミュニケーションの技術に欠け、「自分の」必要なもの、欲しいものをはっきり要求することができない。「いいえ、できません」とはっきり断わることができない。他人の問題や他人の愚痴ばかり話し、「私は」こう感じてこう考えるというように自分自身を主にできない。
他人の問題にお節介にも入り込んでしまったり、他人の落ち込むのを見ると、自分も滅入ってしまったり、または人の気分を変えようと必死になったりする。自分と他人は考え方も感じ方も感情も違う個別の人間であるという自覚が、実はない。
繊細な感情がマヒしてしまっているので、感情の適切な表現ができずに、何だか変だなと思うときに胸がドキドキしても、それに注目せず無視してしまい、行動を変えることなく同じ間違いを何度も繰り返したりする。
自分よりも他人のために行動しているのに報われないとなると、怒りや恨みがたまってくるのは当たり前のことだが、自分自身でその怒りを否定するために適切な怒りの表現ができない。急に爆発させたり、八つ当たりしたり、あるいは怒りを「恐怖」にすりかえて怒りを感じないようにする。
今すぐ良い結果が出ないと気がすまず、せかせか動き回ったり余計な心配に気をもむ。他人の行動を長い目で見守ることができず、自分が今すぐコントロールしようとする。しなければならないことで頭がいっぱいになり、様子をみるということができない。
相手に問題があるのは、自分が何か悪い事をしたかのように思い込み、自分がもう少し努力すれば、また自分の欠点を直せば相手が良くなるだろう、変わるだろうと必死になる。疲れて相手から離れようと考えると「私がいなければあの人は」「子どもがかわいそうだ」とひどい罪の意識に囚われる。
黒か白かがはっきりしすぎたり、自分が正しくて他人がまったく間違っているとか、または反対に全部自分のせいだと思い込んでしまう。いったん何かをやりだすと限度を知らず、または物事を1つも完成させることができずに、途中ですべて投げ出してしまう。
相手が問題を起こすと憤慨し嘆くが、少し調子がいいと苦しかったことを忘れて相手を「可哀想な人だから」と弁護したり本当はとても良い人だと思ってすぐ許してしまう。離れたり調子が良いときは楽しいことばかり思いだし、苦い経験を忘れてしまうのでふたたび同じ過ちを繰り返す。
相手を救おうとあがき、上手くいかないと相手を責める。それもうまくいかないと、相手のせいで自分はこんなにみじめだと被害者意識にとりつかれる。被害者の役割を演じ、相手のせいにしていれば自分の選択と行動の結果の責任を取らなくていいという錯覚に陥る。
自分に自信がないので他人に幸せにしてもらおうと思っていたり、自分の人生の目的や自分はいったい誰なのかがはっきりせず、自分を大切にできない。すべての共依存の問題は、ここから始まっていると思われる。

 

[ 148] 依存症の独り言
[引用サイト]  http://banmakoto.air-nifty.com/blues/

●消費税率は現行のままにして、その全額を年金の財源に充てます。それにより、現行の給付水準を確保します。●年金の基礎(最低保障)部分の財源は全額税で賄い、保険料未納をなくして、確実で安定した制度に改めます。●1人当たり月額2万6000円の「子ども手当」を創設し、 中学校卒業まで手当を支給し続けます。●高校の無償化を実現するとともに、奨学金制度を拡充します。●農家に対する「戸別所得補償制度」を創設して、農家が安心して農業に取り組めるようにします。
が、現在、国の消費税の税収の使途は、毎年の予算総則に「基礎年金、老人医療、介護」という福祉目的に限定すると明記することにより、事実上、福祉目的にあてられています。これ以上、どうやって年金に消費税を廻すんですかね。もしかして、老人医療や介護を切り捨てるとでも???
「年金の基礎部分の財源は全額税で賄い」にいたっては、もう詐欺ですよ。 16兆円もの巨額の財源をどうやって確保するの???
「1人当たり月額2万6000円の『子ども手当』を創設し、 中学校卒業まで手当を支給し続けます」「高校の無償化を実現するとともに、奨学金制度を拡充します」そりゃあ、もらう方はうれしいけれど、これだって半端じゃない金額の財源が必要でしょう。
農家に対する「戸別所得補償制度」もひどすぎる。自民党の農水副大臣じゃないけど、「栃木のコシヒカリが今、1万5700円だ。たとえば作りすぎて5000円になった。その場合は(民主党は)1万円くれると言うんだ。余っているものをなお作るために、税金を使うことが許されるんですか」ということになる。
こんな馬鹿げた公約。都市部の納税者は腹が立たないんですか???あなたの税金が、作りすぎた農産物の損失補填に使われるんですよ!!!小泉内閣になる前、民主党は自民党を「タックスイーター(Tax Eater)」、つまり「税金を食い物にする政党」と批判していました。が、これこそ「タックスイーター(Tax Eater)」の典型じゃないですか!
まあ、多少の常識というものがあれば、こんな甘い蜜のような「約束」を信じる人はいないでしょう。はなから実現できる当てのない「約束」ばかり。こんな有権者を馬鹿にした「約束」を信じるとしたら、あなたも馬鹿です。
本気で政権を担う気がないから、こんな無責任な「約束」をばらまける。ウソをついてでも目先の1票が取れればよいと思っているから、こんな「約束」を恥も外聞もなく掲げることができる。
ただ、自民党には間違いもありました!謝らなければならないこともあります!自民党は反省しています!と冒頭で言ってほしいですね(笑)
基礎年金の国庫負担割合が09年度に3分の1から2分の1に引き上げられる。この財源約2.5兆円を現行の消費税5%でまかなうと民主党。これって、どう考えても非現実的ですよね、小沢さん。しかも、いずれは基礎年金を全額税方式にすると言う。これ、民主党の参院選公約の目玉。でも、新たに発生する16兆円の財源はどうするの???
今、日本国の借金残高(2006年度末)は、前年度より0.8%増えて834兆3786億円。赤ちゃんも含めた国民1人あたりの借金残高は653万円。それでも農家に戸別に損失補填するの???基礎年金を全額、税金でまかなうの???日本国が沈没するんじゃありませんか?小沢さん。
今朝のラジオで、ユ〜ミンの「いちご白書をもう一度」が流れていた。この歌がはやったのは1975年(昭和50年)。私は大学に復学したばかりだった。
この歌、最初に聴いたときは複雑な気分だった。なぜ?「俺たちの闘いはそんな甘いもんじゃなかった」という反発と、なんとなく理解できる当時の一般学生たちの心のありよう。そんな相反する感情が交錯していた。そして、なにより、当時の私はどん底まで落ち込んでいた。「いちご白書」が最初に上映されたのは1970年(昭和45年)。ベトナム反戦運動に揺れる米国の大学で、ノンポリの男子学生が、活動家の女子学生に惹かれて学生運動に参加し、やがて反体制運動に目覚めるという内容の映画だった。この運動は、最後は警官隊の暴力によって鎮圧される、そういう点では日本の全共闘運動との共通性もあった。が、当時、すでに権力、具体的には警察との暴力的対峙が恒常化していた私のような活動家にとっては、なんとも甘ったるい映画だった。しかし、一方で、この映画が持つ「陽性の世界」に対する憧れも本音の部分ではあった。私たちの運動は、70年安保のまさにその年、すでに展望を見失い、実態は暗い消耗戦の世界に突入していた。だから「反体制映画」というより「青春ドラマ」の「いちご白書」の世界に心のどこかが共鳴したのだと思う。
実際、ユ〜ミンの歌にあるような、若い男女の出会いと別れもけっこうあったと思う。「いちご白書」の世界に素直に感動した恋人たちもいたのだろう。きっと、ユ〜ミンの周りにもそんな風景があったのだと思う。いつか君と行った映画がまた来る 授業を抜け出して二人で出かけた 哀しい場面では涙ぐんでた 素直な横顔が今も恋しい雨に破れかけた街角のポスターに過ぎ去った昔が 鮮やかによみがえる君もみるだろうか「いちご白書」を二人だけのメモリィー どこかでもう一度
僕は無精ヒゲと髪をのばして学生集会へも時々出かけた就職が決って髪を切ってきた時もう若くないさと 君に言い訳したね君もみるだろうか「いちご白書」を二人だけのメモリィー どこかでもう一度二人だけのメモリィー どこかでもう一度私は「もう若くないさ」なんてキザなセリフは吐かなかったが、肩まであった髪を切った。昔の仲間たちになんとなく後ろめたさを感じながら復学した。そんなときに聴いたのが、この「いちご白書をもう一度」。私にも辛い思い出はある。
「私と革命のどっちが大事なの?」「革命なんて起きると思ってるの?」訊かれた私は「恋愛と革命を比較することなんてできない」と・・・
彼女は一晩泣き明かしたそうだ。で、きっぱりと別れる気になったと・・・私はというと、心の整理がつかないまま長い時間が経過していく。
この歌を聴くと、最初のときの「複雑な気分」が今でもよみがえる。にがくて重苦しい日々とともに「いちご白書をもう一度」より忘れられないのが、「いちご白書」の挿入歌・「サークル・ゲーム(The Circle Game)」だ。この歌、ほんとうに好きだった。今でも何かの拍子に口ずさんでいる。
そして季節は 巡り 回りペンキで塗られた子馬が 上下します私たちは 時間の回転木馬から出られません戻ることはできずに ただ後ろを振り返るだけやって来たところから 私たちは見るだけそして 巡り 回り 回転しますサークル・ゲームの中でAnd go round and round and roundIn the circle game
そして 巡り 回り 回転しますサークル・ゲームの中で ...訳: HideS当時の若者の、10代が過ぎることへの嘆き、大人になることへの不安を歌ったものだが、メロディ、リズム、歌詞ともに未だにお気に入り。体制に「No!」と突きつける若者を描いた映画の挿入歌。でも、この歌が好き、今は「右翼」と呼ばれることもある私だが。
最近のメディアが報じる世論調査を見ていると、どうも今回の参院選は「自民党惨敗」で終わりそうだ。ひょっとしたら安倍内閣の存続さえ揺るがしかねない結果になる可能性もある。もちろん、世論調査がいつも正しいというわけではなく、選挙が終わってみれば「大山鳴動してネズミ一匹」になるのかもしれない。
ただ、僅差ながら自民党が民主党に敗北した前回2004年の参院選を見てみると、世論調査の示す結果は無視できない。前回選挙のとき、直前の小泉内閣の支持率は、各種世論調査で50%台から40%前後に急落し、不支持率が支持率を上回った。今回も安倍内閣の支持率は続落し、30%前後になっている。不支持率が支持率を上回っているのも前回と同様である。しかも、前回はそれでも自民党の支持率が民主党を大きく上回り、「比例選で自民党に投票する」とした人が「民主党に投票する」とした人をわずかに上回っていた。ところが今回は、自民党と民主党の支持率はほぼ拮抗し、「比例選で自民党に投票する」とした人を「民主党に投票する」とした人が上回っている。
つまり、世論調査をみる限り、自民党にとって今回選挙の方が前回より深刻なのだ。それだけ「年金をめぐる逆風」が強いとも言える。前回は自民党49議席で民主党は50議席。比例区で惨敗した自民党(自民15:民主19)が選挙区で盛り返した。が、今回は、選挙区でも「自民党に」より「民主党に」投票するとした人が多い。讀賣新聞によると、その原因は、町村部、つまり自民党の地盤である田舎で「民主党に投票する」という人が増えているからだと言う。参院自民党幹部は、「(29ある1人区で)10議席も取れないかもしれない」と超弱気だ。
「消えた年金」は安倍内閣だけの責任ではない。政治に責任があるのはもちろんだが、年金の「システム上の欠陥」や社会保険庁の「体質」を放置してきたことの責任は共産党を除く与野党にある。「政治とカネ」の問題にしても、公明党や共産党のようなカルト的宗教組織、あるいは狂信的政治組織に支えられた政治家以外は、皆、多かれ少なかれ抱えていることである。民主党の角田義一前参院副議長や近藤昭一衆院議員の「朝鮮総連からの違法献金疑惑」、もう過去の問題になったが「社民党議員の秘書給与の違法流用」。近藤議員は「疑惑」を認めて謝罪したが、角田前副議長はシラを切ったままだ。小沢一郎民主党代表の資金管理団体は10億円もの土地建物を所有している。うち4億円が「秘書たちの寮」???
民主党は「戸別所得補償制度」で農村での支持を拡げていると言うが、「栃木のコシヒカリが今、1万5700円だ。たとえば作りすぎて5000円になった。その場合は(民主党は)1万円くれると言うんだ。余っているものをなお作るために、税金を使うことが許されるんですか」(自民党・国井正幸農水副大臣)。
今の世論が、政治に怒ることはわかる。が、それが即「反自民」になるところが私には理解できない。05年の郵政選挙で自民党が大勝したことに対する反動もあるのかもしれないが、もう少し冷静に判断すべきではないか。
まあ、前回の選挙直前の世論調査と選挙結果の関係から、今回の参院選の結果を「自民党惨敗」と見るのは「中(あた)らずと雖(いえど)も遠からず」とも思う。が、メディアが垂れ流す情報に振り回されるのは愚かなことだ。自分の目と耳で、どの政党が国民と国家のためになるのかを選択してほしい。
外国人参政権付与法案夫婦別姓法案人権擁護法案(解同の「糾弾権」承認法案)戦時性的強制被害者法案(従軍慰安婦への謝罪・賠償法案)に賛成が民主党
「消えた年金」に対応が遅れた安倍内閣複数の閣僚に「不透明な事務所費」が発覚した安倍内閣「女性を産む機械にたとえた」閣僚がいる安倍内閣「原爆投下はしょうがない」と発言・辞任した閣僚がいた安倍内閣
本島等―1979年から1995年の4期にわたり、長崎市の市長を務めた。この元市長、1988年12月7日に市議会で「天皇の戦争責任はある」と発言。その結果、右翼に銃撃された(重傷)ことで有名だが、実は同日の記者会見でも「天皇が重臣らの上奏に応じて終戦をもっと早く決断していれば沖縄戦も広島・長崎の原爆投下も無かったのは歴史の記述から見ても明らかです」と重ねて発言しているのだ。
つまり、「天皇の戦争責任はある」と考えているだけではなく「沖縄戦も広島・長崎の原爆投下も天皇のせい」と言っているのだ。右翼の暴力はもちろん許せないが、この本島氏の発言も許容できる範囲を超えている。
で、この本島氏、3期目までは自民党の支持(自民党県連顧問)を受けて当選しているのだから驚く。4期目は共産党を中心とする革新勢力の支持を得て当選。5期目は、今年4月に暴力団員に射殺された伊藤一長氏(自民党推薦)に敗れて果たせなかった。
本島氏は、戦時中にスパイ疑惑を掛けられたこともあったというから、自民党を母体に市長になったが、本質的には左翼的思想の持ち主だったと断定してよい。長崎では自民党でなければ市長になれない―だから自民党だったということだ。
朝日新聞や左翼知識人の間では、この本島氏、「平和を愛する正義の人」で通っている。右翼のテロにも屈しなかった信念の人であるというイメージも強い。では、本当にそうか?実は本島氏、以下のような驚くべき発言をしているのだ。
「(広島と長崎への原爆投下について)落とされるべきだった。(満州事変から終戦までの)15年間にわたるあまりに非人道的な行為の大きさを知るに従い、原爆が日本に対する報復としては仕方がなかったと考えるようになった」「南京大虐殺、三光作戦、731部隊などは残虐の極致。日本人の非人間性、野蛮さが出ている」(1998年7月 共同通信)
「米国やアジア太平洋諸国は原爆投下を『正しかった』『天罰だ』『救世主だった』と思っている。確かに、日本がアジア太平洋戦争などで行った数々の悪魔の所業を思うと、原爆投下は仕方なかった、やむを得なかったと、と言わざるを得ない。東京大空襲や沖縄戦も同じだ」「1996年に国際司法裁判所は核兵器の使用を『一般的には違法』と判断したが、それまでは規定はなかった。当時の原爆は今の核兵器と比べれば、おもちゃのようなもので、通常兵器と変わらない。原爆による死を残酷だというが、南京大虐殺や三光作戦による死もすさまじい」(1998年8月 産経新聞)
本島氏に言わせると、米国による原爆投下は「日本がアジア太平洋戦争などで行った数々の悪魔の所業」に対する「天罰だ」ということになる。久間(前)防衛大臣の「しょうがない」発言など、この本島氏の発言に比べれば「かわいい」もんだ。にもかかわらず、本島氏の発言は、既に「公人」ではないということで大した問題にならなかった。まあ、被爆団体からは非難をあびたようだが。しかし、4期16年にわたって市長を務めた人物の発言ですよ、長崎の皆さん。どうして世を挙げて非難するような反応を示さなかったんですかね。不思議です。しかも、伊藤市長(当時)射殺事件の時も、今回の久間氏の「しょうがない」発言の時も、本島氏はメディアに登場して偉そうにコメントを垂れている。本当にメディアっていい加減、そう痛感する。
いずれにしても、原爆にしろ、東京大空襲にしろ、沖縄戦にしろ、米国の責任よりもわが日本国の責任を執拗に追及する左翼の心理状態の一端が、本島氏の一連の言動によく示されていると思う。
はっきり言って「異常」だが、もうこれは信仰に近いものであるから変えようがないと思う。我々も左翼を批判しても、彼らのオツムの構造は変わらないことを自覚しなければならない。
しかし、今度の参院選には参りますね。左派系ブロガーは安倍内閣攻撃と与野党逆転で盛り上がってますけど、保守系はイマイチなのではないでしょうか?
安倍首相は、教育基本法改正、国民投票法成立、社会保険庁(社保庁)民営化、公務員制度改革法成立など、やることはやっているんですね。国民投票法では民主党の護憲派と改憲派にくさびを打ち込むことができたし、社会保険庁民営化などはもう少しうまく国民にアッピールすれば、国民の共感を得られたはずです。私は、自身の健康保険や厚生年金の件で社会保険事務所を訪ねたことがありますが、応対はまったく事務的で「木で鼻を括る」という表現がピッタリの冷たいものでした。国鉄民営化以来役所も変わった。NTT(旧電電公社)や郵便局はもちろん、ハローワーク(職業安定所)や法務局なども、私が若いころとは雲泥の差です。ところが社会保険事務所だけはまったく変わっていない。「親方日の丸」、国民は保険料を徴収する相手であって「お客様」意識など皆無=ゼロなのです。
ところが民主党は社保庁の民営化に反対し、こんな社保庁に引き続き「行方不明の年金」の対処に当たらせるという。これは「ドロボーにドロボーを取り締まらせる」ようなもので、とんでもない発想です。なぜ民主党が社保庁民営化に反対するのか、それは社保庁に根を張る労組が民主党の支持基盤だからです。政府自民党は、このあたりをもっと突くべきでしたね。それに、「行方不明の年金」は政治の責任ですが、安倍内閣だけの責任ではない。歴代自民党政権、細川連立政権、自・社・さ連立政権、自・自・公連立政権、自公連立政権のすべてに責任があります。つまり、共産党を除くすべての与野党にその責任がある。このあたりを政府与党は国民に知ってもらう努力をするべきだし、国民も理解してやるべきです。つまり「行方不明の年金」は政治全体の怠慢によるものであり、与野党の政争の具にするべきではないと。
しかし、安倍政権も情けないですね。柳沢厚労相の「女性は産む機械」発言、松岡農相の自殺、久間防衛相の「原爆投下はしょうがない」発言。閣僚の言動が軽いし、身体検査(金銭問題)も甘い。これでは「行方不明の年金」問題で反撃もできないでしょう。やるべき事はやっているのに、対応のまずさ、イメージの悪さで実績が完全にかき消されている。
米国議会における「従軍慰安婦にかかわる非難決議案」に対する対応もそうでした。「狭義の強制性はなかった」「米議会で可決されても改めて謝罪しない」と言ったのだから、それを貫くべきだった。なのにブッシュ大統領や民主党の下院議長の前では「慰安婦へのお詫び」を表明し釈明した。釈明するくらいなら、最初から無視を決め込むべきだった、と私は思います。
永田町や霞ヶ関では、安倍内閣のことを「少年官邸団」と呼んでいるそうです。リーダーは小林少年ならぬ安倍少年。この「少年官邸団」で怪人二十面相に対抗できるんですかね?
ただ、南京大虐殺のプロパガンダを積極的に認める人物がNo.2の代表代行を務めている政党、従軍慰安婦たちへの国家賠償を先頭に立って要求している女性議員グループを抱える政党、朝鮮総連から参院の大幹部が闇献金を受けていた政党、朝鮮総連を議員会館内に招き入れ、抗議集会を開かせていた政党、部落解放同盟を「関係団体」として公式ページに載せている政党これが民主党の実態です。社保庁のデタラメも、民主党と相思相愛の社保庁労組(旧自治労国費評議会)にその責任の半分がある。
安倍内閣を積極的に支持できないからといって、こんな政党に1票を投じたらエライことになりますよ。中国や韓国には、また土下座外交。朝鮮総連や部落解放同盟が再び跋扈する。参院では従軍慰安婦に対する謝罪と国家賠償が可決される。もちろん社保庁の改革などできません。
参院選挙で政権が変わるわけではないから、お灸を据える意味で野党に投票するという方もおられるかもしれませんが、そうではありません。参院で与野党が逆転すれば政治が停滞し、改革が進まない。嫌気が差して株価が下がる。不景気になる。憲法改正も5年は遅れるでしょう。もちろん、政界が一気に流動化し、政界再編へと進む可能性もありますが、これは冒険ですね。
前回の郵政選挙。私は小泉改革支持で燃えました。去っていった読者も多かったけれども、その数倍の支持者が集まってくれた。そして私は人気ランキングでダントツの1位になった。私は、毎日エントリを更新しながら、日々小泉改革への支持が盛り上がるのを膚で感じたものです。それからすれば、今回はさびしい限りですが、やはり自民党しかないでしょう、現状では。
「灰色のベンチから」というブログがある。人気ブログランキング(政治)の第6位につけている。1週間で43,000ポイントほどを獲得しているから、およそ1日600人くらいがクリックしていることになる。まあ、特に高い支持率ではないが、左派系ブログとしては人気があるほうだろう。同じ傾向のブログとしては「きっこのブログ」に次ぐのではないか。
ところで、このブログ、「きっこのブログ」と極めて似たところがある。それは「コメント欄」がないことだ。なぜか?それは、書いてあることがデタラメだからだ。情報のソースもまったく示していない。というより、おそらくソースなんてないと思う。あるとすれば、業界で飛び交う噂話や憶測、推測、与太話の類でしかない。だから「コメント欄」を設けないことで、記事に「疑問」を感じた読者が質問できないようにしている。質問されても、情報の確たる根拠がないのだから回答できない。すぐに論理破綻する。だから「ねつ造記事の書きっぱなし」「デマの垂れ流し」という無責任きわまりないスタイルを取っているのだ。
しかも、「きっこのブログ」もそうだが、この「灰色のベンチから」もかなり文章力がある。だからデマやプロパガンダも、それなりに「う〜ん、そういうこともありえるかも・・・」と思わせるだけの記事に仕上がっている。真実に疎く、現状に不満を抱いている連中は、これだけでコロッといってしまうだろう。だから、こういうブログは悪質なのだ!その悪質度は週刊現代やポストに匹敵するのではないか。
私は、これまで他人のブログをほとんど批判したことがない。あるのは、向こうから私に理不尽な攻撃を仕掛けて来た時だけだ。ただ例外はある。それは「きっこのブログ」だ。このブログはデマを垂れ流し、相手を誹謗中傷する。記事の根拠はまったく明らかにしない。いかにも「もっともらしい話」をでっち上げ、書き散らす。つまり、己の言葉に対する「責任」というのがゼロなのだ。これはもう言論ではない。名誉毀損罪を始め、犯罪に該当するものさえある。悠仁親王誕生時のエントリや東京都知事選に絡むエントリなど、まさにそうだった。だから私は「きっこのブログ」を批判した。(ただ、本人も「ヤバイ」と思ったのか、前記の二つのエントリはソッコーで削除した〜笑)
「灰色のベンチから」というブログは「きっこ」ほどひどくはないが似たようなものだ。7月6日のエントリは拉致被害者、そしてその家族に対する侮辱以外の何ものでもない。私は、この男(だと思う)を絶対に許さない!もし、言論に「責任」を持つのであればソースを明らかにせよ!他人を批判するのであれば「コメント欄」を設けよ!メールアドレスを記載しているが、そんなもんは「まやかし」にすぎない。
私は、誹謗中傷・罵詈雑言及び「チョン」とか「チャンコロ」という差別語を使用したもの、エロサイトの宣伝以外はすべて受け付けている。他者を批判するのであれば、己に対する第三者の反論や批判も受け付けるべきである。それがブロガーの最低限のマナーだと思う。
【追記】私のブログではコメントは「承認制」になっています。このブログを立ち上げた2年4か月前は、コメントが「承認制」になっているものはほとんどありませんでした。が、今は「承認制」になっているブログが多いですね。なぜか?それはアラシ行為が横行するからです。
私のブログが人気ランキング(政治)で第1位、総合でも20位以内に入ってからは、そういうアラシとしか思えないコメントが急増しました。目的は、単に「私のブログをつぶすため」が、「承認制」に移行してからは、そういうアラシ行為はほとんどなくなりました。
かつて(私のブログがダントツの1位だったころ)、コメントを「承認制」にしていることを他のブログのコメント欄で批判している輩もかなりいましたね。曰く「自分に都合の悪いコメントを排除している」と・・・「言論封殺」というトンチンカンな批判を投げかける人間もいました。が、「自分に都合の悪いコメントを排除」することなんてできません。そんなことをしたら、他のブログで「こういう批判を投稿したら削除された。狭量で独善的なブログだ」とカキコされて、私のブログの品格が一気に失墜します。
コメント欄のカキコをお読みいただければ分かることですが、私のエントリに対する真っ当な批判、根拠のある反論はすべて掲載しています。ただ、時間の関係で、それらのすべてに回答、あるいは再反論をしているかというと、そうではありません。むしろ、読者の方が私の代わりに反論したり回答したりしてくれている例が多いですね。私は、これだけは反論しなければ、あるいは回答する義務があると認めるもの以外は、当ブログに対する批判や反論を放置しています。それは主として時間の関係であり、もしくは「批判や反論、質問」の持つ重要性の問題です。
今後も、放置したままで対応しない「批判や反論、質問」があるかもしれませんが、以上の事情ですのでご了承ください。
「真っ当な批判や根拠のある反論」を公開することにより、却って自らのブログの信頼性が高まる――そう認識すべきです。
今年の1月末に、韓国三大紙の一つ東亜日報に私の著作が紹介されたことは既に書いた。ところが最近、今度は最大の発行部数を誇る朝鮮日報が著作を写真付きで紹介してくれたのだ。
私は、東亜日報で記事になった時、次のようにコメントした。それにしても、韓国の三大紙の一つが拙著を取り上げたことにまず驚かされる。それから、韓国人から見れば、自国をバカにしているとも受け取れる書籍について、淡々と客観的に紹介していることも意外な感じがした。が、それだけ盧武鉉くんが韓国人、とりわけ韓国メディアから見ても“どうしようもない大統領”であるとみなされているということだろう。今回の朝鮮日報の記事を読んでも、この私のコメントはズバリである。以下の記事を読んでほしい。
ビジネスのため日本へ行ってから新宿にある大型書店に立ち寄った。幾多の本の中で盧武鉉大統領の顔絵が描かれた本一冊が目に入って来た。身は太極旗が描かれたエルビス・プレスリーのような服を着ている。胸には北朝鮮国旗を描いておいて、盧大統領の姿をこっけいに表現した本だ。‘ノ・ムヒョン大統領の狂乱発言録’というタイトルを見て驚いた心で読んで見たら、ある日本人がその間、国内外でした盧大統領の発言を集めて “一国の大統領がこんな言葉もする”というふうに皮肉る内容だった。
本の内容は事実だ。去る 4年の間、毎日、新聞やニュースから入ってきて、これ以上驚くこともなかったが、日本ではこんな発言が不慣れで意外だったみたいだ。一国の大統領をこんなにまで戯画化している日本の著者も酷いという気がしながらも、一方では大統領が普段国家元首としての品位を守ることができなくて結局他の国でまで冷やかしにあっていると思ったらもっと頭に来た。恥ずかしい心に逃げるように書店を出た。
日本の著者(私)もひどいが、盧武鉉くんには「もっと頭に来た」「恥ずかしい」と、この韓国人は思ったわけだ。まあ、割と冷静な判断ではないか。
この手紙に対する読者のコメントには、以下のようなものもある。この本を書いた坂真(ばんまこと)という人は従軍慰安婦も認めないで独島も日本の領土だと力強く言い張る日本の極右報道人です。この人のホームページ http://banmakoto.air-nifty.comに入って行って見れば話にならない文でいっぱいになります。ノ大統領がいくら憎いとしてもこれはないようです。これもまた、典型的な韓国人の姿。このギムズンスンという投稿者から見れば、私(坂眞)は「日本の極右報道人」(爆笑)
『韓国が世界に誇る ノ・ムヒョン大統領の狂乱発言録』 は、ほとんどの書店で「売り切れ」か「在庫僅少(1冊)」になっています。amazonは今朝の時点で在庫2冊になっていましたが、今はどうなんでしょう?
発売後、半年以上経っても売れ続けるというのはうれしいですね。ところで、bk1に最近(6月14日付)、読者の方のレビューが載っていましたのでご紹介します。 ノムヒョン大統領は、極めて特異な韓国大統領である。これは、韓国ウォッチャー・韓国ファンにとって既に常識となっている。
就任以来、反米・反日・親北発言を連発し、米国の怒りは頂点、韓米同盟は風前の灯火であり、日本政府もすでに見限っているのだろう。
本書は、ノムヒョン狂乱発言を一冊に纏めたものである。一部の全国紙などでも報道され、韓国ファン(アンチ韓国ファンも含む)には既知のものだが、記録に残しておくにはいい。
それぞれの狂乱発言には、著者が詳しく解説を加えている。解説文に書かれた著者の世界観や歴史認識は極めて真っ当なものである。皮肉もたっぷり効かせており、楽しく読める。
本書にはないが、就任したばかりのライス国務長官との初会談で、日本の歴史認識問題を本題そっちのけで延々と教授し、米国側を呆れさせたという報道も思い出される。
発言内容の狂乱ぶりもさることながら、この政権は新聞法という、反ノムヒョン派の大手紙を狙い撃ちにする言論機関弾圧法や、戦前・戦中の親日派の子孫から財産を没収する事後法を成立させるなど、狂気の政策を実行中の狂乱政権である!
ところで、アジア太平洋地域において、韓国と日本は似通った立場・地位にある。どちらも米国との同盟に安全保障を依存し、近隣に軍事力で恫喝する国家も存在している。
そのようなシビアな国際環境で、無能な元首を戴くことが、いかに国を危うくするかという視点でも考えてみたい。
笑い飛ばすこともいいが、本書を反面教師にもしておきたいものである。こんな韓国大統領が実在した!と記録に留めておくのもいい (としりん)
なかなか良いレビューだと思う。皆さんも「笑い飛ばすこともいいが、本書を反面教師にもしておきたい」と思ってください。つまり、安倍内閣に不満があるからといって民主党を選んだら、「日本のノ・ムヒョン」が必ず登場する。
山口県光市で1999年に起きた母子強姦殺人事件の差し戻し控訴審が26、27日と連続して行なわれた。この控訴審の弁護側質問と、それに対する被告人の証言を聞いて、私はもう怒りを通り越して殺意さえ抱いてしまった。
この鬼畜・福田某(26歳)を死刑にしなければ、被害者家族はもちろん、大多数の日本国民が納得しないだろう。
この鬼畜は、本村洋さん(31)の妻・弥生さん(当時23歳)を殺害した上に屍姦し、長女夕夏ちゃん(同11か月)を絞殺したことを全面的に否認した。1、2審で認めたはずの弥生さんに対する殺意や乱暴目的を否認するその内容は、実に驚くべきものだ。
「(弥生さんを)亡くす意思がないのに亡くしてしまった。乱暴しようという思いは全くなかった」「赤ちゃんを抱いていた弥生さんに中学1年の時に亡くなった実母をイメージし、甘えたいという衝動が起こり、抱きついた」「性的なものは期待していなかった」激しく抵抗されたのでパニック状態になり、弥生さんの体を押さえ込んだ結果、「(気づいた時には)首を右手で押さえている状態になっていたのでびっくりした」
「背後から襲ったから抵抗を押さえ込めた」とか「絞め技の“スリーパーホールド”が得意だったから自然に手が回った」とか知人宛の手紙に書いたのではなかったか???(これはTV報道の記憶なので100%正確な表現ではない)
さらに、弥生さんを屍姦したことについて、「生き返ってほしいという思いでした。(小説「魔界転生」を読んで)精子を女性の中に入れて、『復活の儀式』ができるという考えがありました」 裁判官が「脈は確認した? 生き返ったかどうかは?」と質問すると、「わかりません」
夕夏ちゃんを床にたたきつけたうえで絞殺したというのが1、2審で認定された犯行事実だが、鬼畜は、弁護側の「夕夏ちゃんを頭上から投げ落としたことは?」との質問に、「まったくありません」1、2審で自ら認めた夕夏ちゃんの首を紐(ひも)で絞めたとされる殺害状況についても、弁護側の「(夕夏ちゃんの)首を絞めたのか」との質問に、「わかりません」「(夕夏ちゃんの首に紐が巻かれていたことを知ったのは)捜査員から袋に入った紐を見せられてわかった」
検察側に供述の矛盾点をつかれると、「この1年、記憶を精査し、何をしたのか探ったりしました。この法廷で話したことがすべてです」 と強い口調で反論。そして、検察官の「あなたは夕夏ちゃんの首に紐を巻いたことについて、異なる説明をしていませんか?」という質問に対し、「質問する人が違うならば、違ったニュアンスで答えることになります。詳しくは説明できません」と開き直る始末。
夕夏ちゃんを押入れに入れた件については、「今考えては幼いんですけど、ドラえもんの存在を信じておりました。ドラえもんには何でも願いをかなえる四次元ポケットがあります。押入れはドラえもんの寝室になっているわけですが、押入れに入れることでドラえもんが何とかしてくれると思いました」だと。
弁護側の「犯行時の精神年齢は12歳程度だった」「犯行時は夢を見ているような状態だった」という主張に、まさにぴったりと合わせたような証言。これだけの芝居ができるということは、この鬼畜、相当な「タマ」だ。
安田好弘・主任弁護人が最後に、改めて弥生さんと夕夏ちゃんに対しての殺意と乱暴目的の有無について質問。鬼畜は「事実無根」「記憶にない」などと語気を強めて答えた。
まあ、1、2審だけではなく、最高裁も検察側の主張を事実認定しているわけだから、差し戻し控訴審で事実認定が覆ることはありえない。あとは広島高裁が、最高裁の「計画性のなさや少年だったことを理由にした死刑回避は不当」という判断をどう受けとめるかだ。弁護側の「著しい精神的な未発達がもたらした偶発的な事件」「傷害致死罪にとどまる」という主張は、既に最高裁が否定している。
作業着を身につけ、排水検査を装って部屋に上がり込み、弥生さんに襲いかかった、このどこが「偶発的な事件」なのだ!!!
以上のエントリは、FNNニュース、TBSニュースi、讀賣新聞、そして私が見聞したその他のニュース情報に基づいています。
26日、従軍慰安婦問題に関する決議案が米下院外交委員会で可決された。賛成39対反対2(欠席9)の圧倒的大差。今度ばかりは下院本会議でも可決されるのではないか。
ただ、我々は、もうこの問題に過剰反応しないほうがいい。この問題は、在米の反日中国人と反日韓国・朝鮮人に、わが国内の反日日本人が呼応して起こされたものだ。その背後には中共や北朝鮮の影も見え隠れする。彼らの狙いは、米下院で慰安婦問題での「対日非難決議案」が可決されることそのものではない。米下院で可決されることによって、それがメディアに取り上げられ、中国内や韓国内での「反日感情」が盛り上がる。そして、日本国内でも「歴史認識の正常化」への反発が強まる。これが彼らの真の狙いなのだ。その先には、日米関係に楔(くさび)を打ち込みたいという意図も感じる。
ジェームス・アワー日米研究協力センター所長は次のように述べている。(抜粋)ほとんどの日本人にとって、米国議会決議案はなじみがないが、実は多くの米国人もそのようなシステムがあることを知らない。これら決議案は、単に議員がある問題について述べる意見に過ぎない。決議案が通過したとしても新しい法律ができるわけではないし、何も起こらない。
平均的な米国市民は関心もなく、決議案そのものについて知識を持ち合わせていない、採択されてもそのことを知ることさえないだろうということだ。参照:米議会慰安婦決議案のナンセンス (産経新聞)
リンク先の記事をお読みいただければ、よくわかることだが、米議会と日本の国会はそのありようがかなり違う。言えることはわが国は議院内閣制であり、国会の決議は政府にそれなりの影響を与える。が、米下院における決議は「選挙対策」の意味合いのものが多く、普段は米メディアも関心を払うことがないたぐいのものであるということだ。つまり、同じ議会の決議でも、その重みがまったく違うのである。事実、第109議会(2005〜06年)では、下院だけで1716本もの決議案が処理された。が、そのうち、成立すれば法的拘束力を持つ両院共同決議案は102本だけだった。
このような米下院の決議に敏感に反応することは、かえって反日中国人や反日韓国・朝鮮人、それにわが国内の反日日本人の思惑に乗せられることになるのではないか。
去る3月18日の讀賣新聞のコラムで、編集委員・永原伸氏は次のように書いている。(抜粋)米国で今、「奴隷」という言葉が氾濫(はんらん)している。いわゆる従軍慰安婦問題を巡り、米下院が審議中の決議案にこうある。「日本政府は若い女性を『性奴隷』(sexual slavery)にした歴史的な責任を明快に認めよ」米メディアも「性奴隷」という言葉を使って、日本の対応を論難している。
おそらく多くの日本人は、慰安婦問題に対し、「多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた」(1993年の河野洋平官房長官談話)と認識し、旧慰安婦に「心からお詫(わ)びと反省の気持ち」(同)を抱いているであろう。安倍首相も、同様の発言を繰り返している。
だが、日本の官憲が組織的に慰安婦を強制連行していたことを示す旧軍資料は、今に至るも見つかっていない。その事実をあえて無視し、日本は「性奴隷」制の国だったと決めつける米国の物言いには、首をかしげる人も少なくないのではないか。
そもそも米国では「奴隷」という言葉をどんな場合に使うのか。米バージニア州議会は先月、奴隷制に対する「遺憾」決議を採択した。この決議は、1960年代まで続いた人種隔離政策や今も根強く残る人種差別と、南北戦争以前の奴隷制とをはっきり区別している。また「謝罪」は旧奴隷の子孫への補償につながるとの理由で見送られ、「遺憾」という表現になったという。
自身の奴隷制は厳格に南北戦争以前のものと限定する。被害者への補償もしない。日本に対しては、実態は軍公認の“売春宿”だったにもかかわらず、安易に「性奴隷」と呼び、補償を迫る――。これではダブルスタンダードのそしりを免れまい。米国の名誉のためにも、こんな決議案は採択すべきではない。参照:[政なび]日本は「性奴隷」制の国か (讀賣新聞)
まさに永原氏の言うとおりだ。米国の対応はダブルスタンダード、偽善そのものである。が、それが米国であり米国人なのだ、良しも悪しくも。
何しろ、世界中のどこに行っても英語(米語)をしゃべるのが当たり前と思っている国民性の国だ。だから米民主党のスコット議員のように「ただ、アイム・ソーリー(ごめんなさい)と言うことが、なぜそれほど難しいのか」という発言が出る。
スコット議員は、わが国に対する原爆投下に「アイム・ソーリー(ごめんなさい)」と言えるのだろうか???慰安婦と違い、原爆投下はまぎれもない「戦争犯罪」である。にもかかわらず、米国は開き直るばかりではないか。
米国も米国民も米国メディアも、自分たちが「正義」だと思い込んでいる。こんな偽善者たちにまともに付き合って、反日主義者たちの思惑に乗せられるのはいかがなものか、と私は思うのだ。
民主党の円より子参院議員ごときは、今年2月の米下院における韓国人慰安婦の証言を受けて、「(被害者証言は)日本国会ですべきことなのに、アメリカで先に実現したのを恥ずかしく思う。 日本がアジアで尊敬される国になるためには、戦争加害責任を明確に負って周辺諸国との友好を促進 せねばならない」と述べている。まさに、反日中国人と反日韓国・朝鮮人に、わが国内の反日日本人が呼応したという構図そのものなのだ。
普段は「反米」の民主党左派議員が、こんな時だけ米国の威厳を笠に着る。これもまた、まったくのダブルスタンダード、典型的な偽善。
米国の政治家は選挙の票目当てに、米メディアはその傲慢さと偽善性ゆえに、そして日本の反日政治家は自らの無知と無恥ゆえにわが日本国を攻撃する。
讀賣新聞の永原氏ではないが「米国の名誉のためにも、こんな決議案は採択すべきではない」と私も思う。が、当の米国が無知であり、かつ無恥なのだから、そして目先の打算に流されるのだから、もう私は何も言わない。
坂 眞: 韓国が世界に誇る ノ・ムヒョン大統領の狂乱発言録↑画像かタイトルをクリックすればamazonにアクセスします。
世界家族政策フォーラムが、発展と開発のために家族を大切にするよう国連に要求 (草莽崛起 ーPRIDE OF JAPAN)
エレクトリック・ギターによるボトルネック奏法の第一人者として知られるエルモア・ジェイムスは、単弦奏法に優れ、類稀な才能をもったシンガーでもあった。 (★★★★★)
シカゴの黒人街サウスサイドにあるリーガル劇場 で収録された、ブルース・ライヴ・アルバムの最高傑作である。 (★★★★★)
この作品は読む者を惹きつけてやまない。理屈抜きに面白いのである。その辺のハードボイルドなんて真っ青だ。
が、この作品で描かれるブルースにはちっともブルースを感じない。頭デッカチというか、ブルースを観念で聴いている。

 

[ 149] Amazon.co.jp: 依存: 本: 西澤 保彦
[引用サイト]  http://www.amazon.co.jp/a??a-?-e\?a??-a??a?|/dp/4344404475

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大学の指導教授の家に招かれた千暁は教授の新しい若い妻を見て青ざめた。「あの人はぼくの実の母なんだ。ぼくには彼女に殺された双子の兄がいた」衝撃の告白で幕を開ける愛と欲望の犯罪劇。
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所々にミステリらしき謎解きはあるが、メインの物語としては登場人物達の心情と自己欺瞞の告白。
このシリーズを読んでいる読者にはかなり大きな動きの有る作品だが、そうではない読者には少々冗長かもしれない。
心を守るため、無意識が真実を捻じ曲げて記憶するような暗黒の記憶が引きずり出される。
かなりヘビーな物語ではあるが、その後にきちんと救いがあるので、読了後は爽快感が残る。
「匠千暁」シリーズ中の一作。前作でタカチの過去が明らかになったのに続き、本作では主人公タックの過去が語られるという筋書き。本シリーズは登場メンバ間の関係が希薄だったデビュー作「解体諸因」(傑作)を除くと、青春感傷小説になっていて、ミステリ・ファンが読むには辛い。

今回はユッコが語り手となって、登場人物の観察、考察を述べていくのだが、それにミステリ味を加えようとする試みが既に間違っていると思う。タカチ、タック、ユッコ等と登場人物をカタカナのニックネームで書くのだに恥ずかしいのに、彼らに各々の感傷を語らせ、作品を不必要に長くする手法は如何なものか。読者層を相当若く設定しているのであろうか ? 彼らの世界に同化できない読者にとっては苦行である。

個人的に作者に期待しているのは奇想と解決の鮮やかなロジカル・ミステリである。そうした読者は、本シリーズを読むなとという事かもしれない。
こわかった・・・本当にこわいお話でした。読み終わって改めて題名の意味を心底理解し、ぞっとしました。
ありきたりで印象に残らない題名だと思ってたのですが、かえってその簡潔さが恐ろしくなった。

「性」の印象が前面に押し出されており、文章中にも「女とは〜」を強調するような表現がみられましたが、
男性の犯罪については一人称ウサコが一定の理解を示して「誰にも(私にも)あり得ること」とさせた反面、
女性については、犯罪の心情等を万人に理解の及ばぬところへ追いやったがために、
「女の恐ろしさ」みたいなものが強調されて、結果、結末がホラーっぽくなってしまったかな、という印象でした。

でも、「これ本筋に関係あるの?」ってエピソードが後半ぐいぐい生きてくる、
最後まで飽きさせないドラマチックな展開で、さすが西澤保彦、と思わずうなってしまう一冊でした。

特に時間軸!核心に迫って行くに従って、現在のウサコと過去のウサコという二つの時間軸にいる「ウサコ」の感情がうまく寄り添って行き、
また現在軸のストーリーを、パズルをはめるようにして、過去時点のストーリーが上手に補完していくのがとっても気持ちよかったです。
読み応えのある本でした。おすすめです。
こういうキャラクター小説はたしかにテンポ良く読めるけど、いわゆるライトノベルみたいに物語自体がゆるくなってしまう反面をどうしても持っていると思う。それを引き締めるためには作者の力と緊迫感をいかに持続させるか。この作品では日常で起こり得るいろいろな依存、という重たいテーマを持ってくることでテンションの高さを維持している。だから当然おもしろい。
男の末席を汚す身としては、今回の男バッシングはなかなか考えさせられるものだった。そういう点なら女性のほうが感情移入して読めると思う。けれど誰もが依存と隣り合わせの人生を送っているわけで、いろんな人に読んでほしい一冊。
中身がすごく重いです。ストーカー問題や、虐待の問題なども取り上げられています。今回は、主人公の一人タックの過去が赤裸々に書かれています。かなりダークなことを書いてますが一気に読めたのは何故でしょう?
「依存」に関する様々なエピソードが登場人物それぞれから語られ、一つの大きな話を作っています。「あのエピソードがこんなところにつながってるんだ!」という発見はおもしろくて、西澤保彦らしい感じがしました。ただ、やっぱりテーマが重いせいで、やや読後感が悪い感じがするし、登場人物がリアルすぎて、身近な人をつい当てはめてしまうので妙に主人公に入れ込みながら読んでしまったり、妙にルルちゃん(登場人物の一人)を嫌ってしまったりして少し苦々しい気持ちにもなりました。
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