データ入力用語シソーラス辞典

このページは 2007 年 07 月 17 日 21時47分01秒 に更新したキャッシュ情報です。

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というとは?

[ 214] ITmediaニュース:「はてな」という変な会社 (1/2)
[引用サイト]  http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0507/04/news036.html

ネット企業なのに紙で進行管理。社内会議はMP3でWeb公開。オフィスがあるのに仕事は図書館。旅先の宿で新サービスを開発――「はてな」はとにかく、型破りな会社だ。
「合宿いけへん?」――はてなの近藤淳也社長がそう切り出すと、社員の大反対にあった。ブログサービス「はてなダイアリー」など、20万人以上のユーザーをかかえる、たった10人の会社。遊びに行っている暇はない。
それでも近藤社長は強行した。「きっと何かあるから」。開発者を連れて平日3日間、冬の海を見下ろす宿で過ごした。ひたすらコーディングする以外、やることがなかった。「3日間で5日分くらいの仕事ができた」
この合宿で生まれたのが、国内初のソーシャルブックマークサービス「はてなブックマーク」。合宿に行くまでの車の中で「何作ろう?」とアイデアを募り、宿でコーディングし、帰ってきた次の日にリリースした。たった4日の早業だった。
はてなブックマーク。ブックマークを簡単に登録でき、自動でカテゴリー分けする。同じ記事をブックマークした人を探すこともできる
合宿は、頭をクリアにして新サービスを考え、生産性を上げるための試みだった。はてなの社員はこの1年で倍増し、組織としての形が見えてきた一方、新サービスの開発が日に日に難しくなってきていた。「場所を変え、“3日間はこれだけ作って帰ろう”というシンプルさが必要だと思った」
ユーザーサポートや、既存サービスの細かな改善という連続的な仕事ならオフィスが向いている。しかし、既存のものを否定しゼロから創造する非連続的で破壊的な行為には、オフィスは不適だという。
その後の合宿でも「はてなRSS」「はてなアイデア」など、続々と新サービスができた。最初は反対していたスタッフも、徐々に合宿の効用を認めてくれるようになった。場所を変えることにハマり、普段も図書館で仕事するスタッフまで出てきた。
はてなのオフィスと近藤社長。記者が取材に訪れた日、オフィスの半分が空席だった。図書館で仕事しているためだ
「9月の合宿は、アメリカなんです」。とうとう海外遠征の許可が下りたと、近藤社長は嬉しそうに話す。大好きな旅が、仕事の一部になった。宿の手配から車の運転まで全部1人で引き受けるが「めちゃくちゃ楽しい」という。
「何が必要か、常に自分の頭で考えることが必要」――平日に社員の半数を引き連れて合宿するなどという、経営の教科書にはまず載らない発想は、近藤社長の頭から生まれる。成功例を真似しないから、失敗も多い。トライアンドエラーを繰り返す中に、きらりと光る成功がある。「あしか」もその1つだ。
「あしか」は、はてな開発陣の進行管理ツール。材料は段ボール箱と、コピー用紙の裏紙だ。箱は4つの区画に仕切ってあり、「終わった」「すぐやる」「そのうちやる」「ペンディング」と書かれている。開発タスクは紙に書き、どんどん箱に入れていく。アナログなことこの上ないが、これで十分だという。
スタッフのスケジュール管理も、ずっとアナログだった。壁掛けカレンダーに、全員の予定を手で書いていた。ある時、「社外からも予定を知りたい」という声が出たため、改善策を考えた。「ライブカメラでカレンダーを映したらいいんじゃないか、とか」
ここで、スケジュール管理システムを作ろうなどという“ネット企業っぽい”発想に行き着かないのが、はてならしいところだ。「スケジュールシステムを作れと言われると、サイボウズやYahoo!カレンダーを見て、みんなだいたい同じものを作る。でもそんなの、はてなでやる意味がない。サイボウズを使えばいいんだから」
とはいえ、カレンダーをライブカメラで映すのはさすがに本末転倒ということになり、グループウェア「はてなグループ」に、シンプルなカレンダー機能を実装した。日付をクリックすると、真っ白なコメント欄が表示されるだけ。個人のスケジュール帳と同期する機能もなければ、スケジュールの開始・終了時間の記入欄すらない。
「これまでカレンダー1枚で良かったんだから。ミーティングの終了時間なんか誰も書いていなかったし、相手のスケジュール帳を埋めるなんて、そんな面倒なことやってない」。システムを作るとなると、いろんな機能を入れたくなるのが人情。そこを一歩引いて考え、本当に必要な機能だけを入れていくのがはてな流だ。
「他の人がどうしているかとか、よくある製品がどうなっているのか見たら、その時点で思考停止。そうではなくて、自分が欲しいものを自分の頭で考える努力をしないと、いいサービスは作れない」
「本当は意味がないのに、みんなが不便しているものってあると思う。そういうのが嫌なんだろうな」――無意味なものを壊してやりたいという衝動が、近藤社長の中にあるという。
「意味もなく偉そうな人とか、親が偉いだけで威張っていたり金持ちな人が嫌いで。そういう人にゴロニャーンと順応して生きていくか、そういう人の意味のなさを暴いて生きていくかというと、後者の生き方を選ぶ」
小さいころからそうだった。中学校で生徒会長になった時。初めての会合で「制服をなくそう」と訴えた。「制服って意味あるんかな? 意味分かる人いたら答えてよと聞いたんです。でも誰も真に受けなくて、話がまったく進まなかった」
スタッフの多くがオリジナルの「はてなTシャツ」を着ている。はてな流のクールビズといったところだろうか。もちろん強制ではない
はてなの運営にも、この姿勢を貫く。例えば、だらだら続く意味のない会議は、無駄だからしない。毎朝の短いミーティングで意見をシェアし、すぐ行動に移す。きれいなプレゼン資料を1枚作っている暇があったら、コーディングしていたほうがいい。
「ソニーは本当にダメになった」 ウォークマン生みの親、古巣への叱咤激励「ウォークマンの生みの親」として知られるソニー元取締役で、工業デザイナーの黒木靖夫さんが死去した。古巣のソニーに人一倍愛情を持ち、叱咤激励の言葉を遺していた。
Second Lifeのニュースやコラムを集めたポータルサイトSecond Lifeに関連したニュースやコラムなどを検索・閲覧できるサイト「THE SECOND TIMES」がオープン。
ネットラジオ局、著作権料をめぐる音楽業界との交渉が前進新たな著作権料率が適用されるはずの7月15日を過ぎてもネットラジオと音楽業界の話し合いは続いている。
ブログ「BLOGari」でユーザー画像消えるブログサービス「BLOGari」で不具合があり、6月18日午前10時から13日の復旧までにユーザーがアップロードした画像が全て消えた。
[WSJ] Google、モバイルコンテンツの検索サービスを開発中ただ検索するだけでなく、探し出したコンテンツを簡単に購入し、支払いを済ませられるようなゲートウェイを目指している。
第2回・1週間が経過。超ビギナー3人が買った株はどうなった?若き“イケメン”蔵元の力で日本酒は変わるか――「和醸和楽」設立写真で見る、名古屋・電子マネー事情プラズマの松下 VS 液晶のシャープ、株はどっちが“買い”?北米市場で進む“クルマ+iPhone”
jobtxt1 += 'チャレンジするしかない!チャンスを掴め!大手企業に紹介予定派遣で正社員へ!';
jobtxt3 += 'ITエンジニア2万人の年齢と年収が一目瞭然隣の芝生(年収)は本当に青いのか???';

 

[ 215] 青春のページ★百貨店のページ★青春という名の百貨店
[引用サイト]  http://www.hhmk1.com/

「青春という名の百貨店」では、青春時代に戻ることが出来るような情報を百貨店のようにバラエティ豊かに紹介しています。
貴方が「退屈だな〜」「ツマラナイな〜」と思う今日の一日は、貴方のお父さんやお母さん・おじいちゃんやおばあちゃんが、どんなにお金持ちでも買うことの出来ない一日です。
また不幸にも亡くなられた人が、なんとしてでも、何を犠牲にしてでも過ごしたかった一日なんですよ・・・
可能性いっぱいの貴方に、今日このホームページでお会いできたことに感謝しています。
貴方は、タイムマシンを手に入れたいと思ったことはありませんか?私は時々思います。ホント時々ですが?
タイムマシンを使って、あの楽しかった「青春」に戻れたらいいなって思ったりします(^o^)
夢の中で不思議な百貨店に足を運び、各フロアーで青春に戻れる商品を少しずつ買って、戻りたい時代に自由に旅する・・・
でも残念ながら現在の科学・技術では無理なんですよね。でも・・ひょっとすると、映画「バック・トゥー・ザ・フィーチャー」のような物語が、近い将来に現実にあるかもれませんね。
さて話は現実に戻りますが、人間の「暦上の年齢」と実際の見た目による「生活上の年齢」についてチョッと考えてみたいと思います。
たとえば同窓会などに出席すると良くわかりますよね。いつまでも変わらない人と年相応の人、あるいは老けてしまった人・・・
当たり前ですが同窓会では全員同じ暦上の年齢なのに、いつまでも変わらない人と年相応の人、あるいは老けてしまった人は生活上の年齢が違うからなんですよ。
いつまでも若く見える人、変わらない人は必ずコツがあります。モノの考え方や・性格・遺伝・食事・嗜好品・ファッション・懐具合?他にもあるでしょうが、これらがミックスされて生活上の年齢が決まります。
周りを見渡すと、生活上の年齢が若い人には共通の法則があるようです。(ヒントはこのサイトに?)
人間の若さは気持ちの持ち方で変わるとよく言われますが、あながちウソではなと思います。一方、気持ちとは別に身体の衰えも大変重要なことだと思います。
あまり上品ではないかもしれませんが、俗に老化は歯、目、マラからくるといわれています。
まず入れ歯になって、次に新聞や本の文字が読みづらくなり、最後に性の衰えを自覚するという順番です。
私は仕事上さまざまな年代の人と接していますが、だいたい40歳前後から差が出るようです。もちろん20代でもすごく老けて見える人もいますが、多分環境でしょう。そうでなければ、金銭関係か人間関係でしょうね。
多分色恋関係は無いでしょうね、老けている人は・・・プラトニックでも、相手が手の届かない大スターでもいいですから、何かにドキドキ、ときめいていたいですよね。いつまでも・・・
いつまでも・・・一日でも遅く老化を防ぎ、人生の最後まで青春のようにいられるようになりたいですね。
このサイトではチョッとでも青春に戻れる気分になれる・・・いつまでも人より若く見られる自分になれる!
精神と肉体、ココロとカラダ、生涯「青春」といえるようなピュアな心と若々しい肉体への情報発信ができたらいいな〜そして、貴方様からのアドバイスや情報もお待ちしていますm(__)m

 

[ 216] Debian GNU/Solarisという選択肢 − @IT
[引用サイト]  http://www.atmarkit.co.jp/news/analysis/200707/02/solaris.html

サン・マイクロシステムズのCEO、ジョナサン・シュワルツ氏は6月13日のブログエントリで、Linuxの生みの親リーナス・トーバルス氏を自邸のディナーに招待している。「私が料理しよう、君はワインを持ってくること。これぞ本当の意味でマッシュアップだ」。
この招待は、リーナスがメーリングリスト上でサンに対して強い不信感を表明したのに即座に反応して、シュワルツ氏が提案したものだ。リーナスは、サンのオープンソースへのコミットメントは信用できないという。
6月12付けのLinuxカーネルメーリングリスト宛てポストでリーナスは、サンのスタンスを非難している。「サンはLinuxのリソース(特にドライバ類)を使いたいというわけだ。でも、彼らは何ひとつとして見返りを与えたりはしないだろう(中でも非常に非常に数少ない彼らの輝かしい成果であるZFSについては)」。リーナスは、よほどSolarisの次世代ファイルシステム「ZFS」が気に入っているらしく(参考記事:ノートPCでこそ使いたいZFS)、何度も繰り返しZFSを例にして、サンは重要でない部分ばかり公開して、技術的に優れた肝心の部分をGPLとしてオープンソースコミュニティに提供するということをしていないし、今後もしないだろうと指摘する。「ほとんど間違いなく保証できるできるけど、サンはZFSをGPLv3で出してくることはないね。たとえそれ以外の部分をリリースするとしても。なぜなら、もしそんなことをしたら、特許による保護を失ってしまうから」。これは過去のサンの行状から推論できることだとリーナスは言う。「確かに最終的にJavaはGPLv2でリリースされたし、そのことは賞賛すべきだ。でも、どうしてそんなに時間がかかったのかと、みんなちょっと考えてみたほうがいい」。
リーナス本人が認める通り、彼のサンに対する見方はかなりシニカルだ。しかし、そうしたシニカルな言葉の端々には、サンに対する熱烈なラブコールが読み取れる。それは待たされすぎた恋人が自分に対して言い聞かせる「期待してはダメ」という叫びに似ているのだと記者は思う。リーナスは、サンの人々がLinuxコミュニティが抱えるカーネル開発者、ドライバ資産をのどから手が出るほどほしがっているのだといって揶揄するが、リーナスはリーナスで、Solarisが持つ優れた技術の数々に対して、できればGPLの基に統合できればと願っているのではないか。
ZFSを含めて、OpenSolarisのコードはCDDLというライセンス形態で配布されている。GNUプロジェクトの解説によれば、「(CDDLと)GNU GPLとは矛盾します。そこで、GPLで保護されたモジュールとCDDLで保護されたモジュールは合法的に一緒にリンクすることができません」とされている。このため、互いにオープンソースでありながら、LinuxでZFSが利用できないということになっている(それ故にLinux上にZFSを移植したものは、カーネルに組み込む形ではなく、ユーザー空間で動かすファイルシステム「FUSE」(Filesystem in Userspace)を利用する形になっている)。
リーナスはポストの最後を、こう結ぶ。「これまでのところジョナサン・シュワルツは(前任者であるスコット・マクニーリとは)確かに違ったし、彼が自分で言う言葉の通り、オープンソースに対して真剣であるということを切に願う。誤解してほしくないのだが、Solarisが(CDDLではなく)GPLv3になれば、これは非常に非常にすばらしいものになるだろう。たとえそれがコードに関して一方通行に終わることになるのだとしても!」。一方通行というのが、LinuxからSolarisへのコードの貢献のほうが、その逆よりも大きいのだと言いたいのか、あるいはその逆なのか記者にはよく分からない。
この愛憎相半ばするようなメッセージを見たジョナサン・シュワルツは、やはりそこにラブコールを読み取ったのだろう。もちろん、お前のことを真剣に考えているに決まっているじゃないか――、そう即答するプレイボーイのように、彼はその翌日にはブログの公開メールの中で、リーナスをディナーに招待したのだった。サンはオープンソースに対して真剣に取り組んでいる、その証に招待しようということだ。
原稿執筆時点の7月2日現在、2人のディナーはまだ実現していないようだが、もし実現するとしたら、これは象徴的な出来事になるかもしれない。つまり、OpenSolaris(あるいはSolaris)とGNUシステムのマッシュアップという可能性だ。念のために付け加えておくが、Linux同様にOpenSolarisも単なるカーネルだ。
例えば、Debian GNU/LinuxのLinuxカーネルをOpenSolarisに置き換えた「Nexenta OS」が、現在すでにプロジェクトとして存在する。2006年3月にアルファ版のバージョン1をリリースし、2007年5月にはアルファ版のバージョン7をリリースしている。Nexenta OSは、実際にはDebianそのものではなく、派生ディストリビューションのUbuntuを使っているが、その結果、見た目はUbuntuそっくりになっている。
もともとDebianは、カーネルをLinuxだけに限定していない。GNUプロジェクトが開発したMachベースのカーネル「GNU Hurd」や、NetBSD、FreeBSDといったカーネルを用いたバージョンが存在する。従って、Debian GNU/OpenSolarisともいうべきNexenta OSも、特別に新しいやり方というわけでも、突飛というわけでもない。むしろ、少し歴史をさかのぼって言えば、GNUとLinuxが結びついたことのほうが“接ぎ木”だった。もともとリチャード・M・ストールマンがGNUプロジェクトで目指したUNIX互換システムは、カーネルとしてGNU Hurdを採用するはずだった。1990年代前半、そのHurdの開発がはかばかしくなかったために、横からスッと出てきたLinuxカーネルがジグソーパズルの最後の1ピースを埋め、急成長が始まったわけだ。
その1ピースが再び別のカーネルに置き換わる可能性はある。少なくとも、ディストリビューションに選択肢があるのと同様に、カーネルにも選択肢が増えるのは健全だ。Solarisがオープンソース化され、GPL化する可能性さえある現在、「Debian GNU/OpenSolaris」という選択肢は現実味を帯びてきている。
Nexenta OSとは別のプロジェクトとして、サン・マイクロシステムズが最近明らかにしたのが「プロジェクト・インディアナ」の存在だ。これはDebianプロジェクト創始者のイアン・マードック氏が、最近サンに移籍して取り組んでいるプロジェクトだ。マードック氏はブログの中で、Linuxベースで作業を行う膨大な数の開発者にSolarisを使ってもらうには、ZFS、DTrace、ゾーンといったSolarisのメリットを知ってもらうだけではダメだという。
OpenSolarisの最大の問題は、導入のハードルの高さだ。OpenSolarisを動かすには、すでに稼働しているSolarisマシンを用意するか、サンが無償で提供する「Solaris Express Enterprise Pro Champion Edition」というバイナリパッケージを利用することになるが、これは非Solarisユーザーにはハードルが高い。マードック氏は「OpenSolarisを、よりLinuxユーザーに親しみやすいものにするには、まずLinuxでいう意味でのディストリビューションを作らなければならない」という。なぜなら、Linuxユーザーが重視するのは、Linuxカーネルではなく、GNUのツールやデスクトップ、開発環境など、言い方を変えればディストリビューションにバンドルされているソフトウェアやパッケージシステムでしかないからだとマードック氏は指摘する。psコマンドを叩いて出力結果に違和感を覚えたり、標準でインストールされているmakeコマンドがGNUのものでないためにコンパイルに失敗するようでは、多くのLinux育ちのUNIXユーザーはフラストレーションをためてしまうだろう。マードック氏が言うとおり、今の30代以下は、サンのワークステーションに触れることなくUNIXといえば最初からLinuxという世代なのだ。
いくらオープンソース化されたからといって、誰がわざわざLinuxを「過去の遺物」で置き換えるだろうか。そう思った読者もいるかもしれない。しかし、そうした印象は誤解に基づいていると思う。
確かに、一部のハイエンドサーバ市場を除くと、2000年頃から急速にSolarisは輝きを失っていった。インテルのx86プロセッサは、価格対性能比の伸びがめざましく、SPARCプロセッサは、いつまでもクロックが低いままだった。また、もともとシングルプロセッサ向けに設計されていたLinuxカーネルと比べると、早い段階からSMP向けのロック機構を多く採り入れたSolarisは、いくぶん動作がモッサリして感じられた。それで「x86+Linux」は「SPARC+Solaris」よりも、はるかに安くて速い選択肢に見えた。x86のコモディティ化したハードウェアをどんどん買い足して、いくらでもスケールアウトができるように思われた。
1つは、時代がより高度な並列化を求めていることだ。サーバは今後ますます多くのトランザクションをリアルタイムに処理することが求められるようになる。それらの処理は、個々には必ずしも高負荷というわけでも、多くのコンピューティングパワーを要するものでもない。そうした処理には、UltraSPARC T1のように同時に走るスレッドの数が数十にもなる並列処理に適したプロセッサが有利だ。
リーナスはSPARCプロセッサは過去のものだと言いたいようだが、サーバ用途に関していえば、SPARCアーキテクチャが再び大きなアドバンテージを持ちつつあるように記者には思われる。プロセッサのダイ写真を見れば一目瞭然だが、UltraSPARCのダイ上には、よく整備された田畑のように小さなコアがギッチリと並んでいる。まるでペイントソフトでコピー&ペーストしてモジュールを並べただけのようなデザインは、実は設計すべきダイの数が少なくて済むというメリットもある。一方、x86系のプロセッサはコア数が少なく、キャッシュメモリに多くのトランジスタを割いている。ダイの半分以上とか場合によっては7割程度をキャッシュが占める状態になっている。これは、単一、あるいは2つ3つのプロセスを高速に動かすデスクトップアプリケーションのような用途には適するだろう。しかし、大量の細かな処理を集約してさばくサーバ用途に向くかは疑問だ。これは、デスクトップで圧倒的なシェアを持ったインテルの、逆説的な桎梏(しっこく)ではないだろうか。誰も32コアのプロセッサ上でシングルスレッド設計のクライアント向けアプリケーションを走らせたいなどとは思わないだろう。
x86であれ、SPARCであれ、今後、コア数が大幅に増えたときにも性能がリニアにスケールするかどうか、また管理が容易かどうかという点を考えると、LinuxよりSolarisに一日の長があるように思われる。セキュリティ関連の機能でも、業務システムでメリットがある先進的な機能が、Solarisには多く取り込まれている。
マードック氏は、OpenSolarisとSolarisの関係についても、興味深いことを言っている。OpenSolarisのほうは、先進的な機能をどんどん入れ、一方Solarisのほうはバックワードコンパチビリティや安定性重視にして、あまり実験的なコードを入れたりはしない。
かつてLinuxがそうだったように、OpenSolarisの“クール”な機能の数々が、学生や若い開発者の心を捉え、Debian GNU/OpenSolarisで彼らが育つとしたら? 一部のミッションクリティカルシステムだけでなく、多くのサーバでSPARC+Solarisが採用されるような黄金時代が再び来るかもしれない。
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[ 217] シナトラ千代子 - 「はてなスター不要というユーザーよ、はてなを去れ」とjkondoは言った
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/wetfootdog/20070712/p1

はてな新サービス「はてなSM」がリリースされて、あんまりハードなプレイ(仕様)に各所で悲鳴が上がっているようです。
んで、ひさしぶりにキーワード巡ってみたんですが、はてなスターについてのネガティブな感想は以下のとおり。
消せないほうが「複数あるものは間違ってつけたものかも」という解釈が成り立つ。消せるのにいくつも☆がついてると、よけいな疑念をひき起こしかねない。このへんの判定(☆の数)のゆるさはあってもいいかもしれない。これは↓の2とも関連するけど。
現在、すでに同じユーザーがひとつのエントリに☆をいくつもつけてるので、☆の過多(数字)はほぼ無意味になってる。100とかついてて、半分ぐらいが同じユーザーのものだと、もうほかのエントリについてる☆も見る気がなくなる。ただこのあたりは時間が経つと、愉快犯とかミスは減るんだろうし、長い目で見ればどうでもいいかも。
そして上のほうで書いたように厳密に「1エントリ=1☆」でなく、「いくつ☆つけてもOK」なゆるさがあれば「☆の数=評価」とはならない。「うおおおスゲェ!!!」みたいなときには連打ダダダダダdで☆たくさんつけてもいいんじゃね、ぐらいなゆるさはアリかもしれない。そうすれば「☆の数=評価」というよりは「☆=足跡(足踏み)」的なものになる。あるいは「ブクマのusres数よりもっとぐだぐだななにか」。そうすれば「☆がたくさんついているのはスターユーザー」みたいな見られ方は減るし、「評価されたくない」ユーザーにも受け入れられるかもしれない。
じつは「1エントリにいくつもスターがつけられる」ってわりとしっかり考えた上で決められた仕様なのかもしれない。
これはあってもいいと思うけど。CSSでの対応は可。つけるにしても、ただ☆マークじゃなくて、○とか▲とかしなもんの顔とか適当に選べるといい。ただちいさく数字だけ、とか。これもやはりそうしたほうが「☆の数=評価」感を薄められる。デザイン的にイラネ、という意見もあったし。
まー説明なしにいきなりだし、既存のサービスと比較する表現(ブックマークとの違いとか)がないのでよけいにわかりにくいかもしれない。
ブクマはあんまり利用したくないユーザーにはいい。ブクマアレルギーというか、あの界隈には近づきたくないというユーザーもいるようだし
なにかひとこと言いたいとき、コメント欄が常連ばっかりだったり荒れてたり議論白熱でもコメントしやすい
なにかひとこと言いたいとき、ブックマークのコメント欄が常連ばっかりだったり荒れてたりするときにもコメントしやすい
ま、ブクマするほどじゃないよねというエントリにつけるにはいいかもしれない。フォトライフの☆と同じような感じで
ブックマークとの感覚の違いとしては、ブクマのほうは「はてなブックマークという世界での出来事」として捉えられているのに対して、はてなスターのほうは
という、「自分の管理領域であるはずのところに管理できないものが入りこんだ不快感」をもって受け止められたように見える。なんか嫌悪のまなざしでさえ見られてる部分もある。マンドラゴラか。だから「世の中には評価されたい人とそうでない人がいる」以前に、「無断で」「しかも消せない」という腹立ちが多いように見えた。
そしてキーワード巡った感じでも、はてスタにかなり強い不満・不快感をもったユーザーのほとんどは「ブックマークアイコン」を非表示にしているユーザーだったので、このあたりの人たちはおそらく「評価されたくない人たち」ではないか。このあたりはブックマーカーが跋扈する界隈とはあきらかに異なり、先日のエントリで書いた「はてなの農村」、しかもそのはずれ*1にあたるところだろうと思う(もちろん農村でもマンドラゴラ不評だけど)。
はてスタは「コミュニケーションツール」というよりは「コミュニティ形成ツール」に近い。そのため「農村のはずれに好んで住んでいるひとたち」にはかなりウケが悪い。ただいずれは農村には受け入れられる可能性があるので、農村的ツールになるかなという気はする。
おそらくそこらへんの凡百が考えることの斜め上をゆく近藤社長のことだから、初期の批判は折り込み済みかあるいはまったくべつの理由で考慮しなくていいと考えているのではないか。んで、現在の仕様からわたしなりに考えたのは
はてなスターは「ゆるい評価」を目的にしたシステムではないのか。「いくつでも☆」はそういうことではないのか
はてなブックマークが結果としてなんかギスギスした雰囲気をもたらした部分もあり、また「ガチな評価システム」となってるところから、ちょっと離れたものを作ろうということじゃないかと。でも基本的に「発信すること=評価されること」、これがはてなの考えるブログ世界ですよ、みたいな。ただこれは「発信しないひと=プライベートモードへ、そうでなければよそへ」にも見える。
マクルーハンも言っていたように「ボタンはメディアである」わけで、「ひとはボタンを押す動物」なのだなぁ。
ちなみに上の「おたがいさま」アイコンはここ(→g:髭暴 - 秘芸ちょう - ココロ社さんがあなたのブログを炎上から救う!)でココロ社さんに無断で作ったものです。
『「池にちょっとした石を投げ込んで、何か起きないか見てるんでしょう。暫くは黙ってつきあいしてあげたらどうですか。別に何事も起こらないというのが一番寂しいことですがね。」大いに怒り散らす人もいいですが・・・・』 (2007/07/13 14:01)
シナトラ千代子 - 「紳士が歩くべきは車道側でも歩道側でもない」という簡単なことがなぜわからないのか

 

[ 218] 嫌なニュースはそもそも見ないという選択肢 | Lifehacking.jp
[引用サイト]  http://lifehacking.jp/2007/07/news-is-not-news/

むだな情報が入ってこないようにするのは本当に大事です。最近、ニュースさえも見ないことにしようかと真剣に思います。
ニュース番組の嫌なところは、あまりに悪いニュースが多すぎるという点です。災害の報道や、重大な事件を教えてくれるのはいいのですが、多くの日はなんだか「こんばんは、ニュースです。それでは今日起こった悪いことを悪い順に紹介します」という構成で困ります。
どこかで子供が痛めつけられたとか、殺人事件があったとか、そういったニュースはそれ自体は非常に痛ましくて、なんとかしてあげたい気持ちにさせられますが、たいがいはもうすでに視聴者としての私にできることはなく、ただ後味の悪さが残るばかりです。
Liz Strauss のブログにこの気持ちを代弁してくれる小さなお話が紹介されていました。出典はわからないのですが、とても良かったので翻訳して紹介。
昔々、何世紀も前に一人の教師が田舎の泥道を教師らしい考え事に満たされながら歩いていました。すると生徒の一人が先生のもとに駆け寄ってきて、興奮気味に言いました。
先生は微笑むと歩くペースをゆっくりにして、生徒が息を継げるようにしてあげました。そして並んで歩きながら柔らかい口調で言いました。
先生は、生徒が自分の答えを自分で聞けるように気を遣っているかのように静かに歩いていました。先生が次に口を開いたとき、それはもうほとんど囁きでした。
「つまり君は、君の知らない人が起こした、真実であるかもわからない、悪いニュースについて教えてくれようとしたわけだね。それは重要とはいえないね」
ここで言ってるのは「悪いことからは目をそむけよう」というのとはまったく次元の違う話です。信憑性も疑われる、自分にとって関係のない情報は意味がないという単純な論理に加え、嫌なニュースをたくさん投げつけられ、少しずつショックを感じることさえなくなるくらいなら、むしろそれらの全てをシャットアウトしても悪事に対して強い嫌悪感を感じる心を守りたいという意志が感じられます。
テレビニュースのもう一つ悪い点は、問題を「外部」のものとして捉えやすくしすぎる点にもあります。ニュースを見ていて「最近世の中はどうなってしまったんだろう!」「最近の若者ときたら!」「まともじゃない奴がおおぜいいる。自分はそうではなくて良かった!」、こんな風に考えるだけにとどまっていると次第に問題の原因を外にしか求めなくなってしまうのではないでしょうか。しかもそれは自分で考えたことではなく、他人の書いたシナリオに乗せられてのことなのです。
もちろんニュースを冷静に分析することも必要ですし、時事に通じていることは重要なことです。でも家に帰ってちょっと和みたいと思うとき、朝一番に出勤する前、そんなときにはテレビをあえて消してしまう。あえて情報を断ち切ってしまう。こんなオプションもあってもいいのかもしれません。
CC ならいいんだけど、すごいあやしい。 前(ゲームの)ゼルダの曲も見かけたし、 地雷みたいでおっかない。 雑メモ: シングルトラック再生用 Flash mp3プレイヤー 6(+1)個 2007-07-11 嫌なニュースはそもそも見ないという選択肢 | Lifehacking.jp この記事に関心を持った方には ブラッドベリの短編「トインビー・コンベクター」がおすすめ。 ネタばれになるので詳しくは書きませんが、
? 嫌なニュースはそもそも見ないという選択肢 | Lifehacking.jp 自分がテレビをみなくなった理由。?
いいお話ですね。全く同感です。つい1週間ほど前にテレビを処分し、ニュースはウェブ上で選んで見ていますので、今日の記事はとくに「そうそう」と頷きながら読みました。
今のところNHKのサイトとGYAOを使って動画ニュースを見ていますが、どちらも文字でタイトルが並んでいるので、痛ましい事件などあえて詳細を知る必要がないニュースはスキップしています。ただ、そういう生活をしていると、悪いニュースに対して敏感になりすぎるのでは、と思ったりもしますが・・・。
> テレビニュースのもう一つ悪い点は、問題を「外部」のものとして捉えやすくしすぎる点にもあります。・・・
私も、「では我々はどうしよう」「どうしたら少しでもよくなるのだろうか」という姿勢がほとんど見られないのが、嫌で仕方ないのです。特に朝方のニュースでは顕著な気がします。結局、時事問題に大きな遅れはとらないために、TVは見ずにケータイでニュースチェックするスタイルになりました。
ぼくの好きなサイトの一つに“Lifehacking,jp”というサイトがあります。Mehoriさんという研究者の方が運営されているLifehack系のサイトで
一応ほとんどの記事拝見させていただいたのですが、一番刺激になったのはTimの本のことについてでした。
「自分で考えたことではなく、他人の書いたシナリオに乗せられてのこと」といっても、情報自体をシャットダウンすることは、情報について考えることのきっかけすらを放棄しています。「悪いことからは目をそむけよう」というのとは確かに違いますが、「そもそも目を閉じよう」というのは思考停止の論理です。ここには「自分で考える」ということ自体が存在しません。そのきっかけ自体がありませんから。
「ニュースをそもそも見ない」ということを否定はしませんが、それが賢明な行為かといえばそうとも言い切れないと思います。「考えない」という意味では「他人の書いたシナリオに乗せられ」るのと大差ないと思います。
貴重なご意見をありがとうございます。おっしゃるとおりで、「考えなしにニュースをみる」のは「他人の話におどらされる」のとほとんど同義でしょう。それは私も強く思います。
しかしこの記事を書いたときに考えていたのは、しかるべき考えや価値観を手にしている人が情報の氾濫を前にして、それでも全ての情報を受け止め続けるべきかということでした。答えは yes でもあり、no でもあるのだと思います。
目を背けずに持続して考えることが重要だという意味では yes。でも求める前から玄関からテレビからラジオのスピーカーから押し寄せてくる「悪い知らせ」の大群に慣れなければいけないのかというと、それは no である気がするのです。
外からやってくる情報を受け取るのか・受け取らないのか。これを選ぶことが許されないことが多い世の中ですから、せめてテレビのスイッチを入れるか入れないかの自由くらい手にしたい。そんなことを考えさせられた元記事の挿話だったのです。
疲れて悪いニュースを見たくない時はあえて消す、それを書くこと自体、逆にそこまでテレビに支配されていたのか?と驚きます。
昨今の中国の汚染食品のニュースを見ると、本当に見てよかったと思います、知らないなんて恐ろしくてたまりません。

 

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